自己紹介

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豊後高田市, 大分県, Japan
アメリカ人である両親を持ちながら、日本の片田舎で生まれ育ち、自分はどこに属するのか、国籍とはなにか、国とは何か、どうしたら世界の平和は訪れるのかと幼い頃から考えてきました。もちろん、答えにはたどり着いていないのですが、自らが考えることや思うことを言葉にしたり、文章にしたり、時に対話する場をつくったりすることでより良い社会の実現を目指しています。

2013年6月27日木曜日

サガリバナ





昨日、沖縄にやってきた。
以前ここに住んでいたこともあり、降り立つと「ただいま」と言いたくなる場所のひとつだ。自らのホームベースは今のところ国東半島なのだけれど、最近はいないことが多い。ほとんど仕事で動いているのだが、どこか「動かされている」要素も強いと感じる。

昨日は「おきなわスローツアー」の高野さんの案内に身を委ね首里から壺屋までの道を散策していた。ご存知の通り、那覇(首里も含め)は大きな迷路のようだ。近頃は消防車が通れるようにと戦前の小さな道も拡張されつつあるが、迷路であることには変わりない。そんな迷路好きな高野さんはそんな中でも猫のみが知る小道をすいすい歩く。



街には参議院選挙のポスター掲示版が設置され、いよいよ本番という感じ。
わたしも緑の党、そして三宅洋平さんのチラシを手に出会う人に渡している 。
とにかく、選挙に参加しよう。比例区や小選挙区など分かりにくい要素も多々あるが、1日のうち10分でいいから参議院選挙に自らがどう参加するのか考えてみよう。
投票方法についてこのサイトが分かりやすいのでリンクはっておきます↓

http://www.yoshinobu-fujiwara.com/hirei/

夜咲くサガリバナ


2013年6月23日日曜日

ちょっと梅雨らしくなってきた。
ムカデが耐えない我が家だが、雨音をききながら仕事をし、子どもたちは雨が降るが故につくられる様々な遊び場に心躍らせている。

最近友だちとおもしろい試みをはじめた。
おもしろいと言ってもただの「Book Club」。

同じ本を一緒に(各自)読んで思ったこと、感じたことを共有し合うというもの。皮肉にも大学を卒業するまでは本を読むことにあまり関心がなかった。好奇心は比較的旺盛だし、様々な活動もしていた。でも、どうも本は避けていた。
それが、15歳で日本を離れ、23歳で帰ってきてからは日本語で書かれている本に魅力を感じる。とは言っても、日々の生活におわれ本を愉しむ時間はあまりない。寝る前に本を読めば数分で寝てしまうし、昼間に読もうと思っても外の草が気になる。

そんな中友だちが「Book Club」を提案してくれた。
何事もそうであるように、物事を誰かと共有できることは喜びが増大されるだけでなく、効率もいい。1人で読むことでは得られない責任感のようなものもうまれ、学びへの意欲も増す。。。ような気がする。

インターネットを通して得る情報とはまた違い、ページをめくるという原始的な行為をもって新しい知に出逢う喜び。

図書館で絵本を大量に借りる息子。
広い畳の間にあぐらをかいて、静かにページをめくる。
そんな豊かな時間を想う。




2013年6月10日月曜日

Hilo





幸いなことに数日間ハワイ島に来ている。Walk Japanの営業の仕事だ。

仕事とはいえ、この地に脚を踏み入れたと途端すっと楽になるものがあった。
去年の7月に初めてハワイ諸島を訪れたのだけれど、あまりのインパクトに心うたれた。
雄大な大地、人々の多様な容姿、海からの風、それら全てに癒されている自分がいる。

日曜日のマーケットは大にぎわい。野菜や果物、加工品、熱々の料理、アートに音楽と楽しい時間。

火山活動が盛んなハワイ島はこうした溶岩の海岸が多い。

車で通り過ぎた墓地。日本風の(仏教)お墓もあれば、十字架もある。きっとその他の宗教のお墓もあるのだろう。そりゃそうだ、何を信じようとみな還る場所は一緒なのだから。たぶん。


2013年6月2日日曜日

雨の楽しさ

この田植えの前の時期になると、人の少ない田舎でも外で人をみる頻度が増える。
広く整備された田には麦が黄金に輝き、収穫を待つ。
棚田には水がはられ、山の緑も濃くなってきた。
こんな風景はこの列島の至る所に存在するんだな。


梅雨もはじまり、やりたいことはいろいろあるけど、雨のお陰でのんびりだらだらやっている。雨であまり外に出れないこども達は家で大はしゃぎ。仲良くしたり、ケンカしたり、手を握ってみたり、叩いてみたり。。。
父親業4年目に入るが、奥のふか〜い世界だと日々精進している。楽しいな。





2013年5月26日日曜日

カルクリ vol.2

もう少し早くから宣伝しておきたかったのだが、今日の今日になってしまった。
2月に一度開催した「カルチュラルクリエイティブスおおいた(通称:カルクリおおいた)」第2弾を今日やります!そう、5月26日(日曜日)の今日だ。
場所は前回同様、大分市のthe bridge

前回は谷崎テトラさんを中心に県内外で活躍・活動する方々のトークを聞き、最後に「白熱教室」という形で選挙は義務であるべきか権利であるべきかの議論をファシリテートさせてもらった。カルクリを共に主催するOTAさんが言うように「全員参加型の市民討論会」だ。

今回のテーマは「憲法改正」。結論を出すことにとらわれず、対話の作法を用い、多様な意見に耳を傾けることで、自らの立場を徐徐に明確にしていく。無論、ファシリテーターとして参加するわたしは憲法学者でもなんでもなく、憲法改正についても限られた知識しか持っていない。ただ、カルクリは知識や経験のあるゲストをお呼びして話を聞くことだけでなく、参加する全ての人が主役であることを目指す。前回に引き続き、市民レベルで政治文化を熟成させていくべく、政治をテーマにしている。夏に参議院選が控えていることは言うまでもないが、まずは政治に参加する文化づくりにフォーカスしたいと思う。
政治が全てではないが、政治の世界で決定される多くの事柄をみても、厳かにできるような余裕はわたしたちにはないと思う。わたしたちが参加すれば政治は楽しくなる。





春のウォークも終わった。
山には多くの花が咲いている。
由布岳登山道にはミヤマキリシマ。

2013年5月17日金曜日

ガイコクジン

日本とガイコクジンとの関係は非常に興味深いものがある。
わたしも、社会からはガイコクジンと言われる部類の人間だ。
しかし、この日本で生まれ育った事もあり文化的には「日本人」である要素も多くある。そんな外見と心理との社会的不一致を持ちあわせているお陰でいろいろな体験に恵まれる。

先日、ニュースで日本中で吹き荒れた突風についての話題を取り上げていた。
そこで、ニュースのテロップには「◯◯県で外国人女性ひとりけが」とあった。この文脈において聞き手がけが人がガイコクジンであったことを知る必要がどこにあるのか考えてみた。わたしが知る限りどこにもない。彼女は外国人登録書を通してガイコクジンだと判断されたのだろう。その彼女は日本に代々住む在日コリアンかもしれないし、わたしのように日本で生まれ育ったガイコクジンかもしれないし、はたまた外国人風(これもまたよく使われる表現だが)の女性でありながらも日本人だったかもしれない。どちらにせよ、このニュースでけが人がガイコクジンだと言う事実は聞き手(そして語り手)とガイコクジンとに差異があることを強調するという意味のみで役立っている。

同時にテレビCMでは、外国人の片言日本語をおもしろおかしく映し出すものも相変わらず多い(ソフトバンクのCMは宇宙家族的な感じで面白いし、ここで言わんとしているカテゴリーには入らない。。。)。これらのメディアの影響を肌で感じるわたしたちガイコクジンは日本に住む多くの人がこの距離や違いを事実として捉えているのだと時折落胆してしまう。

「こんにちは」と一言言えば、「日本語うま〜い」。お箸をつかえば、「お箸上手ですね〜」。これらの褒め言葉とされる言葉達の多くは実際にはガイコクジンとの距離を縮めようとしているのかもしれないが、実は逆効果になってしまっている。それも、この傾向は世代を超えて継承される日本の大衆文化になってしまっているのが実に悲しい。そして、日本列島で生まれ育つ多文化な子ども達が引き続きメディアを通して形成されるガイコクジン像と照らし合わされる事実も喜ばしくない。

日本という国において、西洋やアフリカから来たような明らかに容姿が違う人を見た時に何らかの戸惑いを持つのは自然だと思うし、悪いことだとは思わない。しかし、それらの違いをもった人々と接する時に、当たり前のことだが、ただの「人」として接するという原点的な思考を忘れてはいけないのだと思う。これらの視点を世界を旅して培う人もいるかもしれないが、わたしは外に出なくても得られると思う。

先日、国東半島のとある小さなお寺を訪れた。フランスからの男女2人、カナダから1人、イギリスから1人、そしてわたし。日本の片田舎で出くわしたら少し戸惑ってもおかしくない構成メンバーだ。ただ、お寺につくやいなやそこにいたお婆ちゃんはわたし達が日本語を喋るかどうか、緑茶を好むかどうかは気にせず、縁側に座るように招き入れてくれた。皆でお茶を頂きながら、お婆ちゃんの世間話を聞いていた。その時点ではわたしは日本語で応答しているのだが、それ自体も特に気にしていなかった。そこには、誰かとお茶を交わすという原点的な交流があり、お婆ちゃんは何の躊躇もなくその実に人間味のあるおもてなしを続けた。

いわゆる外国の人に日本を案内すると日本流のおもてなしや親切心にみな心を打たれる。既にここ3年だけでも何百人をツアーで案内しているが、みな一環してそう言う。

しかし、わたしたちの中にあるガイコクジンというイメージを本当に変えていけたらと思う。なぜなら、それらはイメージであり、固定概念であり、人を知り、理解するという出会いの醍醐味をうばってしまっているからだ。

どんな人であれ、あなたの知る言葉で、あなたの伝えたいことを伝える、それだけで良いのだと思う。

無論「ガイコクジン」と「日本人」という構造自体もわたし達自身がつくり出しているだけであり、地球は本質的に多様性に満ちている。


2013年5月11日土曜日

life.

"Life is what happens to you while you're busy making other plans."

ジョンレノンの言葉だ。
いろいろな捉え方がある言葉だと思うけれど、この訳が気に入った。。。
あれこれ準備しているうちに過ぎていくのが人生だ」。

この言葉にメッセージがあるとしたら、これもまた聞き手(読み手)によって様々だろう。ちゃんと生きろよ!と励まされているように感じる人もいれば、人生とははかないものなのだとどこか悲観的に捉える人もいるだろう。

近頃、「今を生きる」ことと「先を見据える」ことについてよく考える。
わたしたちに存在する(「わたしに」と言った方が良いのだろう)唯一のつかみどころのあるというか、感じとれるリアリティのようなものは下記のような感覚をもって得られる。

例えば、誰かを抱きしめた時の感触やぬくもり。
熱いお茶が喉をとおり、体中に染み渡り、胃におさまる様。
目の前にそびえる木の美しさに圧倒される心。

これら一時一時が連なり、日々が形成されていく。
このように実際に味わっている事柄以外は大抵頭の中に存在していたり、心の中に存在していたりするだけかもしれない。

「今を生きる」ことが大切だと思い生きてきたつもりが、その概念がいつのまにか自らの中で「停滞」を意味していたように感じる。遠心的であれ、求心的であれ、きっと今を生きることはもっとハツラツとした清々しい状態を表すような気がしてきた。
そんな中で一歩先を見ながら明るい方へ歩み、過去に囚われずしも時に過去から学び、日々訪れる奇跡をかみしめたい。そんな風に思う。
先を見据える事と今を生きる事、そんな狭間にあるお年頃なのかもしれない。