311とは、一体なんだったのだろう。最近、そんなことをよく思う。もちろん、2011年3月11日は東日本大震災が起きた日であるのだけど、わたし達が合言葉のように「311」と言う時にはそこには何があるのか。。。
去年の春にはじまった国東源帰のプロジェクトでは、「源に帰ること」や「自然と共鳴したくらしに学ぶこと」、そして「311を共有すること」を謳った。いずれも、メッセージ性のある抽象的な概念だ。311はたくさんの命を消し去り、個々に内在する不安を大きくし、家族を引き裂き、自然の偉大さを見せ、絶望をもちらつかせた。無神論者でさえ、311を「神からの警告のようなもの」と捉えるほど。それほど、この列島に住む、ないしはこの列島とのつながりを大きく持つ人に痛烈なインパクトを与えた。311は以前から反原発運動や経済至上主義に対し意思表示をしてきた人にとっては「希望の光」としても存在する。
闇に在って、見える光がある。何度も書くが、311は大きな悲しみ、絶望をこの世につくった。被災した人々、家族を失った人々の直面している闇はそう簡単には癒えない。街を元に戻すこと、ハードな復興は相対的に見れば簡単だ。しかし、元に戻らないもの、取り戻せないものに本当の悲しみがある。311はわたし達に何を教えてくれているのか。
闇から光を見いだす力だと思う。
これは、本当に大変なこと。本当につらいこと。しかし、しなければいけないこと。
わたし達は闇をみた。共有した。どんなに、しんどくてもそこから光を、希望を見いだしていかなければいけない。なぜなら、いのちを紡ぐ必要があるから。
全ては自らの受け止め方。非難する時もある、問題提起することもある。しかし、問題は問題にしてはじめて問題になる。目に前にあるものは、あなたに何を伝えているのか。その現実に対し、自分をどう動かすか。問題によって、自分を形成するのではなく、問題なくしても物事の本質を見いだせる自分を見つけよう。
このどんよりとした天気がわたし達に何を伝えているのか。
今日という時に感謝して。