雲ヶ岳。圧倒されそうな名前だが、国東の山々はどれもそう高くない。
弘法大師が奉られ、巨石からは水が滴りおちている。みぞれが降る中頂上を目指した。
そこから、隣の山、御許山へ。タブ、スギ、ムクなどの大きな大きな木がある森をぬけた所に宇佐神宮の奥宮大元神社はある。一面真っ白い雪に覆われていて、そこに足跡をつけるのに躊躇したが、初詣。良い年になりますように。わたしにとっても、あなたにとっても。
そこから、更に2時間程下ると宇佐神宮に入る。いつもは人が多い宇佐神宮だが、今日は天気のせいか御許山と同じ静けさだ。
この道のりを案内してくれたのは国東を歩き続け、その素晴らしさWALKJAPANという形で世界中に発信し続けているポールさん。ありがとう。
こんな詩に出会った:
「まちがった行いと正しい行いという思考を超えたところに、野原が広がっています。そこで逢いましょう」
ジェラルディン・ルミというイスラム神秘主義の詩人。
産まれた時から、数々の経験を経て、家族、隣人、友人、地域、国、文化などの影響を受けながら私たちは価値観や世界観をみにつけていくのだと思う。何かに対して正しいと思える気持ち、または自らの行動が良いことだと思うこと。誰にでもある。正義感や使命感が強くなりがちなわたしなんかはけっこう多い。生きていく中で何かに対して正しいと感じることは生きる原動力にすらなる。例えば、この間の衆議院選挙。
わたしは選挙権はないのだけど、原発は必要ないと思ってるし、TPPも大問題だと思っている。選挙権があればきっと共産党や社民党や未来の党なんかに一票をいれていたんじゃないかなあと思う。それが、正しいと思うから。
選挙制度に問題があったとはいえ結果は再稼働賛成、憲法改正の自民党がかなりの議席を獲得した。それを、正しいと思う人がいるから。
こんな多様な正しさ、時には対峙した正しさがあるこの世界で事をすすめていくのはなかなか難しいようにみえる。わたし達の未来は正しさの競い合いにあるのか。。。そうは思いたくない。
人間関係においてはもっと分かりやすいのかもしれない。
自分が正しいと思っていた考え方が相手にとっては決してそうではなかったという体験を誰もがしたことがあると思う。自分の正義感が相手の劣等感を大きくすることだってある。もし、政治においても人間関係においても最終的な目的が安心や幸せだとしたら自らの正義感を押し進めることは果たして効果的なのだろうか。相互の正義感(訴え)の根底にはどんな必要性があるのか耳を傾ける時間の余裕も必要かもしれない。
ただ、市民運動ではそんな時間の余裕が与えられないのが現実なのかもしれないが。
もっともっと耳を傾ける時間。もっともっと相手の言わんとしている事を理解する時間。
MORE LOVE. MORE LOVE.
0 件のコメント:
コメントを投稿