今日は晴れている。外で作業をしたいところだけど、「中国からの大気汚染」が気になって躊躇している。ニュースなどで耳にしている人も多いのだとは思うけれど、北京を中心に大気汚染がかなり深刻な状況にあると言う。その汚染は北京市民だけではなく、風にのって日本列島や南アジアの方までいっている。。。お隣さん中国、兄弟みたいな中国だが、尖閣諸島や反日デモもあってか(ずっと前からか)中国が問題を起こしているとなるとメディアは一斉に非難モードで報道する。メディアだけでない、政府も。
汚染状況が知れるのは大変ありがたいことなのだけれど、どこか違和感を感じているのはわたしだけではないと思う。
そりゃ、そうだ。福島原発で大事故が起き、空から海から土から汚染が地球規模で広がっている現状を引き起こしながらもなお原発を推進している日本は放射能の汚染は既に終わったかのような振る舞い。
情報は自分自身で得なければいけないことを誰もが学んだ311だが、テレビで流れることが基本的に事実だと思う人が大半である今の社会で「ただちに影響はない」と言い続けた政府。政府になんらかの思惑があったのか、パニックを恐れたのか、情報の伝達が遅かったのか、わたしには分からない。分かることは、国は必ずしも「国民」を守らないということ。ただ、国を責めるだけでも前には進まない。なぜなら、国は国としてやらなければいけないことがあるから。そのやらなければいけないことは時折国民(もしくは他の国民)を犠牲にするし、国民の声を反映しない。
大気汚染であれ、放射能であれ国の境界線内で起きてもそこからうまれる影響に国境などない。だからこそ、国を超える意識が必要なのだと思う。
311以降、一貫して地球市民の眼差しで事をとらえている小出教授の言葉には改めて感動する。
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「同じ国民だから仲間なのでもなく、同じ民族だから仲間なのでもない。連帯すべき仲間はまさに国境を越えて世界に広がっている。.....小出 裕章
チェルノブイリ事故で放出された死の灰は、人為的に引かれた国境などをものともせずに世界全体を汚染した。そして、そのことは実はもっと大切なことを示している。つまり、もともと国境というものは、歴史の中で度々塗りかえられてきたように、その時の支配・被支配の力関係で決められてきたものに過ぎず、本質的な意味を持つものではないということである。そのことを十分に認識していた原子力推進派は、チェルノブイリ事故後、国や社会体制といった相違を超えて連帯し、今後も原子力を強行する姿勢を示している。
一方反原発運動の側も、国を超えた国際的な連帯を模索し始めている。実は1986年9月に、反原子力国際会議がウィーンで開かれ、世界の約30カ国から、反原発に関わっている人々が集まった。参加者のなかには、核実験の犠牲にされたタヒチの人、核燃料再処理工場のため子どもたちに白血病が多発している英国ウィンズケールの人もいた。また、モスクワ・トラスト・グループと呼ばれる人たちも参加しており、彼らは、チェルノブイリ事故後、逮捕・勾留という当局の弾圧にも負けずに、モスクワで原子力に反対して活動している。そのグループの一人の女性は集会で発言した。「私は今この場で発言しているが、私はもうモスクワには帰れない。」
私が大切にしたいのは、日本や日本人ではなく、世界中で、困難を乗り越えて原子力に反対し続けている人たちである。私の仲間は世界中どこにでもいるし、国境を越えて彼らと連帯したい。そして、いついかなる時でも、たとえ国と国が戦争するという時でも、決して「国」とか「国民」という謝った観念に惑わされないで生きなければならないと痛切に思う。同じ国民だから仲間なのでもなく、同じ民族だから仲間なのでもない。連帯すべき仲間はまさに国境を越えて世界に広がっている。」
「放射能汚染の現実を超えて」(1991)より
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