もう少し早くから宣伝しておきたかったのだが、今日の今日になってしまった。
2月に一度開催した「カルチュラルクリエイティブスおおいた(通称:カルクリおおいた)」第2弾を今日やります!そう、5月26日(日曜日)の今日だ。
場所は前回同様、大分市のthe bridge。
前回は谷崎テトラさんを中心に県内外で活躍・活動する方々のトークを聞き、最後に「白熱教室」という形で選挙は義務であるべきか権利であるべきかの議論をファシリテートさせてもらった。カルクリを共に主催するOTAさんが言うように「全員参加型の市民討論会」だ。
今回のテーマは「憲法改正」。結論を出すことにとらわれず、対話の作法を用い、多様な意見に耳を傾けることで、自らの立場を徐徐に明確にしていく。無論、ファシリテーターとして参加するわたしは憲法学者でもなんでもなく、憲法改正についても限られた知識しか持っていない。ただ、カルクリは知識や経験のあるゲストをお呼びして話を聞くことだけでなく、参加する全ての人が主役であることを目指す。前回に引き続き、市民レベルで政治文化を熟成させていくべく、政治をテーマにしている。夏に参議院選が控えていることは言うまでもないが、まずは政治に参加する文化づくりにフォーカスしたいと思う。
政治が全てではないが、政治の世界で決定される多くの事柄をみても、厳かにできるような余裕はわたしたちにはないと思う。わたしたちが参加すれば政治は楽しくなる。
春のウォークも終わった。
山には多くの花が咲いている。
由布岳登山道にはミヤマキリシマ。
自己紹介
- Mario Anton
- 豊後高田市, 大分県, Japan
- アメリカ人である両親を持ちながら、日本の片田舎で生まれ育ち、自分はどこに属するのか、国籍とはなにか、国とは何か、どうしたら世界の平和は訪れるのかと幼い頃から考えてきました。もちろん、答えにはたどり着いていないのですが、自らが考えることや思うことを言葉にしたり、文章にしたり、時に対話する場をつくったりすることでより良い社会の実現を目指しています。
2013年5月26日日曜日
2013年5月17日金曜日
ガイコクジン
日本とガイコクジンとの関係は非常に興味深いものがある。
わたしも、社会からはガイコクジンと言われる部類の人間だ。
しかし、この日本で生まれ育った事もあり文化的には「日本人」である要素も多くある。そんな外見と心理との社会的不一致を持ちあわせているお陰でいろいろな体験に恵まれる。
先日、ニュースで日本中で吹き荒れた突風についての話題を取り上げていた。
そこで、ニュースのテロップには「◯◯県で外国人女性ひとりけが」とあった。この文脈において聞き手がけが人がガイコクジンであったことを知る必要がどこにあるのか考えてみた。わたしが知る限りどこにもない。彼女は外国人登録書を通してガイコクジンだと判断されたのだろう。その彼女は日本に代々住む在日コリアンかもしれないし、わたしのように日本で生まれ育ったガイコクジンかもしれないし、はたまた外国人風(これもまたよく使われる表現だが)の女性でありながらも日本人だったかもしれない。どちらにせよ、このニュースでけが人がガイコクジンだと言う事実は聞き手(そして語り手)とガイコクジンとに差異があることを強調するという意味のみで役立っている。
同時にテレビCMでは、外国人の片言日本語をおもしろおかしく映し出すものも相変わらず多い(ソフトバンクのCMは宇宙家族的な感じで面白いし、ここで言わんとしているカテゴリーには入らない。。。)。これらのメディアの影響を肌で感じるわたしたちガイコクジンは日本に住む多くの人がこの距離や違いを事実として捉えているのだと時折落胆してしまう。
「こんにちは」と一言言えば、「日本語うま〜い」。お箸をつかえば、「お箸上手ですね〜」。これらの褒め言葉とされる言葉達の多くは実際にはガイコクジンとの距離を縮めようとしているのかもしれないが、実は逆効果になってしまっている。それも、この傾向は世代を超えて継承される日本の大衆文化になってしまっているのが実に悲しい。そして、日本列島で生まれ育つ多文化な子ども達が引き続きメディアを通して形成されるガイコクジン像と照らし合わされる事実も喜ばしくない。
日本という国において、西洋やアフリカから来たような明らかに容姿が違う人を見た時に何らかの戸惑いを持つのは自然だと思うし、悪いことだとは思わない。しかし、それらの違いをもった人々と接する時に、当たり前のことだが、ただの「人」として接するという原点的な思考を忘れてはいけないのだと思う。これらの視点を世界を旅して培う人もいるかもしれないが、わたしは外に出なくても得られると思う。
先日、国東半島のとある小さなお寺を訪れた。フランスからの男女2人、カナダから1人、イギリスから1人、そしてわたし。日本の片田舎で出くわしたら少し戸惑ってもおかしくない構成メンバーだ。ただ、お寺につくやいなやそこにいたお婆ちゃんはわたし達が日本語を喋るかどうか、緑茶を好むかどうかは気にせず、縁側に座るように招き入れてくれた。皆でお茶を頂きながら、お婆ちゃんの世間話を聞いていた。その時点ではわたしは日本語で応答しているのだが、それ自体も特に気にしていなかった。そこには、誰かとお茶を交わすという原点的な交流があり、お婆ちゃんは何の躊躇もなくその実に人間味のあるおもてなしを続けた。
いわゆる外国の人に日本を案内すると日本流のおもてなしや親切心にみな心を打たれる。既にここ3年だけでも何百人をツアーで案内しているが、みな一環してそう言う。
しかし、わたしたちの中にあるガイコクジンというイメージを本当に変えていけたらと思う。なぜなら、それらはイメージであり、固定概念であり、人を知り、理解するという出会いの醍醐味をうばってしまっているからだ。
どんな人であれ、あなたの知る言葉で、あなたの伝えたいことを伝える、それだけで良いのだと思う。
無論「ガイコクジン」と「日本人」という構造自体もわたし達自身がつくり出しているだけであり、地球は本質的に多様性に満ちている。
わたしも、社会からはガイコクジンと言われる部類の人間だ。
しかし、この日本で生まれ育った事もあり文化的には「日本人」である要素も多くある。そんな外見と心理との社会的不一致を持ちあわせているお陰でいろいろな体験に恵まれる。
先日、ニュースで日本中で吹き荒れた突風についての話題を取り上げていた。
そこで、ニュースのテロップには「◯◯県で外国人女性ひとりけが」とあった。この文脈において聞き手がけが人がガイコクジンであったことを知る必要がどこにあるのか考えてみた。わたしが知る限りどこにもない。彼女は外国人登録書を通してガイコクジンだと判断されたのだろう。その彼女は日本に代々住む在日コリアンかもしれないし、わたしのように日本で生まれ育ったガイコクジンかもしれないし、はたまた外国人風(これもまたよく使われる表現だが)の女性でありながらも日本人だったかもしれない。どちらにせよ、このニュースでけが人がガイコクジンだと言う事実は聞き手(そして語り手)とガイコクジンとに差異があることを強調するという意味のみで役立っている。
同時にテレビCMでは、外国人の片言日本語をおもしろおかしく映し出すものも相変わらず多い(ソフトバンクのCMは宇宙家族的な感じで面白いし、ここで言わんとしているカテゴリーには入らない。。。)。これらのメディアの影響を肌で感じるわたしたちガイコクジンは日本に住む多くの人がこの距離や違いを事実として捉えているのだと時折落胆してしまう。
「こんにちは」と一言言えば、「日本語うま〜い」。お箸をつかえば、「お箸上手ですね〜」。これらの褒め言葉とされる言葉達の多くは実際にはガイコクジンとの距離を縮めようとしているのかもしれないが、実は逆効果になってしまっている。それも、この傾向は世代を超えて継承される日本の大衆文化になってしまっているのが実に悲しい。そして、日本列島で生まれ育つ多文化な子ども達が引き続きメディアを通して形成されるガイコクジン像と照らし合わされる事実も喜ばしくない。
日本という国において、西洋やアフリカから来たような明らかに容姿が違う人を見た時に何らかの戸惑いを持つのは自然だと思うし、悪いことだとは思わない。しかし、それらの違いをもった人々と接する時に、当たり前のことだが、ただの「人」として接するという原点的な思考を忘れてはいけないのだと思う。これらの視点を世界を旅して培う人もいるかもしれないが、わたしは外に出なくても得られると思う。
先日、国東半島のとある小さなお寺を訪れた。フランスからの男女2人、カナダから1人、イギリスから1人、そしてわたし。日本の片田舎で出くわしたら少し戸惑ってもおかしくない構成メンバーだ。ただ、お寺につくやいなやそこにいたお婆ちゃんはわたし達が日本語を喋るかどうか、緑茶を好むかどうかは気にせず、縁側に座るように招き入れてくれた。皆でお茶を頂きながら、お婆ちゃんの世間話を聞いていた。その時点ではわたしは日本語で応答しているのだが、それ自体も特に気にしていなかった。そこには、誰かとお茶を交わすという原点的な交流があり、お婆ちゃんは何の躊躇もなくその実に人間味のあるおもてなしを続けた。
いわゆる外国の人に日本を案内すると日本流のおもてなしや親切心にみな心を打たれる。既にここ3年だけでも何百人をツアーで案内しているが、みな一環してそう言う。
しかし、わたしたちの中にあるガイコクジンというイメージを本当に変えていけたらと思う。なぜなら、それらはイメージであり、固定概念であり、人を知り、理解するという出会いの醍醐味をうばってしまっているからだ。
どんな人であれ、あなたの知る言葉で、あなたの伝えたいことを伝える、それだけで良いのだと思う。
無論「ガイコクジン」と「日本人」という構造自体もわたし達自身がつくり出しているだけであり、地球は本質的に多様性に満ちている。
2013年5月11日土曜日
life.
"Life is what happens to you while you're busy making other plans."
ジョンレノンの言葉だ。
いろいろな捉え方がある言葉だと思うけれど、この訳が気に入った。。。
「あれこれ準備しているうちに過ぎていくのが人生だ」。
この言葉にメッセージがあるとしたら、これもまた聞き手(読み手)によって様々だろう。ちゃんと生きろよ!と励まされているように感じる人もいれば、人生とははかないものなのだとどこか悲観的に捉える人もいるだろう。
近頃、「今を生きる」ことと「先を見据える」ことについてよく考える。
わたしたちに存在する(「わたしに」と言った方が良いのだろう)唯一のつかみどころのあるというか、感じとれるリアリティのようなものは下記のような感覚をもって得られる。
例えば、誰かを抱きしめた時の感触やぬくもり。
熱いお茶が喉をとおり、体中に染み渡り、胃におさまる様。
目の前にそびえる木の美しさに圧倒される心。
これら一時一時が連なり、日々が形成されていく。
このように実際に味わっている事柄以外は大抵頭の中に存在していたり、心の中に存在していたりするだけかもしれない。
「今を生きる」ことが大切だと思い生きてきたつもりが、その概念がいつのまにか自らの中で「停滞」を意味していたように感じる。遠心的であれ、求心的であれ、きっと今を生きることはもっとハツラツとした清々しい状態を表すような気がしてきた。
そんな中で一歩先を見ながら明るい方へ歩み、過去に囚われずしも時に過去から学び、日々訪れる奇跡をかみしめたい。そんな風に思う。
先を見据える事と今を生きる事、そんな狭間にあるお年頃なのかもしれない。
2013年5月6日月曜日
ゴールデンウィーク
近くの藤棚が美しい。新緑も美しい。なんていい季節なんだろう。
世の中にどんな苦悩や絶望があろうと、この地球が美しいことは変わらないのだと思う。
天候も良く、外作業にはもってこいの日々が続いている。
冬に切った竹を燃やしたり、草を刈ったり、甘夏をもぎとったり、楽しいな。
こんな時はぐるぐるまわり続けている自分の頭も休憩できる。
世はゴールデンウィークだ。普段は静かな国東半島でさえ、県外ナンバーの車を多くみるし、渋滞のような現象も起きている。5月3日は憲法記念日。夏の参議院選挙はどうやら「憲法改正」が焦点になるそうだ。憲法とはわたしたち市民が国の暴走を阻む為にあるものだと考えている。政権が変わる度に変わるものではない。時の政権に振り回されない為にも、いわゆる国民の普遍的な価値や美徳(安全に、平和にくらしたいという願いなど)を形にしたものだと思う。
参議院選を機に憲法を学び直したいと思う今日この頃。
世の中にどんな苦悩や絶望があろうと、この地球が美しいことは変わらないのだと思う。
天候も良く、外作業にはもってこいの日々が続いている。
冬に切った竹を燃やしたり、草を刈ったり、甘夏をもぎとったり、楽しいな。
こんな時はぐるぐるまわり続けている自分の頭も休憩できる。
世はゴールデンウィークだ。普段は静かな国東半島でさえ、県外ナンバーの車を多くみるし、渋滞のような現象も起きている。5月3日は憲法記念日。夏の参議院選挙はどうやら「憲法改正」が焦点になるそうだ。憲法とはわたしたち市民が国の暴走を阻む為にあるものだと考えている。政権が変わる度に変わるものではない。時の政権に振り回されない為にも、いわゆる国民の普遍的な価値や美徳(安全に、平和にくらしたいという願いなど)を形にしたものだと思う。
参議院選を機に憲法を学び直したいと思う今日この頃。
登録:
投稿 (Atom)