自己紹介

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豊後高田市, 大分県, Japan
アメリカ人である両親を持ちながら、日本の片田舎で生まれ育ち、自分はどこに属するのか、国籍とはなにか、国とは何か、どうしたら世界の平和は訪れるのかと幼い頃から考えてきました。もちろん、答えにはたどり着いていないのですが、自らが考えることや思うことを言葉にしたり、文章にしたり、時に対話する場をつくったりすることでより良い社会の実現を目指しています。

2013年5月17日金曜日

ガイコクジン

日本とガイコクジンとの関係は非常に興味深いものがある。
わたしも、社会からはガイコクジンと言われる部類の人間だ。
しかし、この日本で生まれ育った事もあり文化的には「日本人」である要素も多くある。そんな外見と心理との社会的不一致を持ちあわせているお陰でいろいろな体験に恵まれる。

先日、ニュースで日本中で吹き荒れた突風についての話題を取り上げていた。
そこで、ニュースのテロップには「◯◯県で外国人女性ひとりけが」とあった。この文脈において聞き手がけが人がガイコクジンであったことを知る必要がどこにあるのか考えてみた。わたしが知る限りどこにもない。彼女は外国人登録書を通してガイコクジンだと判断されたのだろう。その彼女は日本に代々住む在日コリアンかもしれないし、わたしのように日本で生まれ育ったガイコクジンかもしれないし、はたまた外国人風(これもまたよく使われる表現だが)の女性でありながらも日本人だったかもしれない。どちらにせよ、このニュースでけが人がガイコクジンだと言う事実は聞き手(そして語り手)とガイコクジンとに差異があることを強調するという意味のみで役立っている。

同時にテレビCMでは、外国人の片言日本語をおもしろおかしく映し出すものも相変わらず多い(ソフトバンクのCMは宇宙家族的な感じで面白いし、ここで言わんとしているカテゴリーには入らない。。。)。これらのメディアの影響を肌で感じるわたしたちガイコクジンは日本に住む多くの人がこの距離や違いを事実として捉えているのだと時折落胆してしまう。

「こんにちは」と一言言えば、「日本語うま〜い」。お箸をつかえば、「お箸上手ですね〜」。これらの褒め言葉とされる言葉達の多くは実際にはガイコクジンとの距離を縮めようとしているのかもしれないが、実は逆効果になってしまっている。それも、この傾向は世代を超えて継承される日本の大衆文化になってしまっているのが実に悲しい。そして、日本列島で生まれ育つ多文化な子ども達が引き続きメディアを通して形成されるガイコクジン像と照らし合わされる事実も喜ばしくない。

日本という国において、西洋やアフリカから来たような明らかに容姿が違う人を見た時に何らかの戸惑いを持つのは自然だと思うし、悪いことだとは思わない。しかし、それらの違いをもった人々と接する時に、当たり前のことだが、ただの「人」として接するという原点的な思考を忘れてはいけないのだと思う。これらの視点を世界を旅して培う人もいるかもしれないが、わたしは外に出なくても得られると思う。

先日、国東半島のとある小さなお寺を訪れた。フランスからの男女2人、カナダから1人、イギリスから1人、そしてわたし。日本の片田舎で出くわしたら少し戸惑ってもおかしくない構成メンバーだ。ただ、お寺につくやいなやそこにいたお婆ちゃんはわたし達が日本語を喋るかどうか、緑茶を好むかどうかは気にせず、縁側に座るように招き入れてくれた。皆でお茶を頂きながら、お婆ちゃんの世間話を聞いていた。その時点ではわたしは日本語で応答しているのだが、それ自体も特に気にしていなかった。そこには、誰かとお茶を交わすという原点的な交流があり、お婆ちゃんは何の躊躇もなくその実に人間味のあるおもてなしを続けた。

いわゆる外国の人に日本を案内すると日本流のおもてなしや親切心にみな心を打たれる。既にここ3年だけでも何百人をツアーで案内しているが、みな一環してそう言う。

しかし、わたしたちの中にあるガイコクジンというイメージを本当に変えていけたらと思う。なぜなら、それらはイメージであり、固定概念であり、人を知り、理解するという出会いの醍醐味をうばってしまっているからだ。

どんな人であれ、あなたの知る言葉で、あなたの伝えたいことを伝える、それだけで良いのだと思う。

無論「ガイコクジン」と「日本人」という構造自体もわたし達自身がつくり出しているだけであり、地球は本質的に多様性に満ちている。


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