今年からはじめて米をつくっている。わたしが住む里の北東に並石(なめし)という小さな集落があり、国東半島西側にしては珍しく比較的きれいな小さな沢がある。水は豊かだが、磐座の陰になり、日照時間はすくない。朝早く、空気の美味しい時間にでかけていき、せっせこ田草をとっている。無農薬・無化学肥料で、他の田んぼに比べると田草の量も多く、田んぼ的見栄えはいまひとつ。見栄えも含めて、上手につくられている周りのおじいちゃん達は想定外にも無農薬を歓迎してくれ、いろいろな指導もしてくれる。自分のおじいちゃんやおばあちゃんにほとんど会ったことのないわたしは、「年寄り」といわれるかれらの生命力に魅せられる。その手は何を握りしめ、その足はどこを歩いてきたのだろう。かれらも、数十年前は誰かの愛おしい赤ん坊だった。そのかれらが、今わたしに米づくりを教える。わたし自身は、後世に何を継承できるのか。これから産まれてくる赤ん坊たちに何を残すか。朝日にそよ風、美味しい水に美味しいお米、鳥の声に静寂の音、自然と共鳴する喜びがわたしたちに活力と平穏を与えてくれる。喜びを実感し、喜びを伝えていきたい。
(奥がうちの田んぼ)
今日、うちに小学校の先生が相談にきた。
クラスに母親がベトナム人で父親が日本人の男の子がいるという。彼は、上級生から「ガイコクジン」「ニホンジンじゃない」などと言われ、先生方もお母さんも心配しているそうだ。去年、群馬で母親がフィリピン人である(ニホンジンではない)が故にいじめにあい命を絶った12歳の女の子がいた。。。上記両者共、母親はアジア人。たぶん、外見はニホンジンだといっても疑われない顔立ちだろう。ということは、母親と他の子供達が接点をもった時点でいじめや罵りははじまったのかもしれない。ニホンジンだと言っても、相当疑われる顔立ちをしているわたしも同じ経験をしている。参観会で背の高さも、しゃべり方も、肌の色も、髪質も全てが違う母の存在をみなが見ることに対し大きな緊張をかかえていた。それらの、幼少期の葛藤もあり、大人になって日本社会のガイコクジンに対しての異質な捉え方に問題提起してきた。それを受けてよくある返答が「日本は島国だから」「鎖国があったからね〜」。島国であることは事実だが、島国は他にもたくさんある。キューバ、ジャマイカ、フィリピン、マダガスカル。。。鎖国も事実だが、それを理由にしていたら前にすすまない。ルーツがどこであれ、子どもたちは健やかに生きる権利が当然ある。都会では10人に1人がルーツが海外にある人と子どもをつくっている今、ニホンジンが一体だれをさすのかわたし達はもう一度考えていくべきだろう。わたし達も無意識に他者をつくってはいないだろうか。大人が形成する他者を子どもはまねをし、エスカレートさせる。他者をつくるか、つくらないかは本来その人次第。ナニジンであっても良いが、包括的な人間でありたい。みんな、思い出そう。わたしたちは地球人。
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