大分に住む友人、龍さんの言葉だ。素晴らしいと思う。
日本をガイドしていると、参加者からこんな↓言葉を毎日のように聞く。
「日本はなんて美しい国なんだろう。。。日本人は本当に親切だ。。。日本は水も豊富でゴミひとつ落ちていない。。。こんなに緑がたくさんあるなんて。。。日本の女性も男性も美しく凛々しい。。。日本に来ると優しくなれる。。。日本から学びたい」
とまあ、とにかくほとんどの人が「日本」と「日本人」を絶賛して帰っていく。
日本で生まれ育ったわたしも聞いてて嬉しいし、誇りに思う。そして、かれらの見解にはほぼ同感だ。何百年、何千年という月日を経て築かれてきた日本列島各地で存在する風土は実に美しいと思う。そして、この風土をつくってきた人々とこの大地に感謝と敬意を表したい。
それとは裏腹に近頃「日本人」という言葉の文脈に優越を交えるコメントをFacebookなどで目にすることが多くなった。「日本だからこそ」「日本人ならでは」「日本こそが」などという表現は国民国家という概念にしばられない時代を想像していく上でどうしても相容れない要素がある。例えば、何か課題・問題が「日本」に蓄積していたとしても、それを「日本特有のもの」にしてしまうのは、国境という枠を永続させていくことに等しい。
一概に「日本人」と言っても、その言葉が誰を指しているのかは受けてによっていろいろだと思う。選挙の話をしていれば、「日本国籍を持った人」だろうし、文化的な話をしていれば「日本で生まれ育った人」かもしれないし、歴史の話をするならば「先祖代々日本人の人」を指すのだろう。その文脈の必要に応じて「日本人」という言葉をつかうこと自体は問題ではない。
ただ、上に記したようにツアー参加者の褒め言葉は「日本」だったり「日本人」を褒めているのだけど、それはきっと自らが生きている環境や文化の中においてもそれらを取り入れていきたいという思いであって、日本(人)が他国より優れていることを発信していきたいわけではない。この地球に住む同じ人間として、地球文化をより成熟させていきたいという気持ちの現れだと思っている。
人はどこで生まれようが、親が誰であろうが、ナニジンであろうが、平等に尊く、価値ある存在。
使い古された表現だが、この時代に原点に帰りたいとの思いをこめて改めて綴る。
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